「青熊宇都宮治療院の逆子の鍼灸」についてはこちらからどうぞ

以下の文章は、2011年2月20日に、文京鍼研究会で発表したものを、加筆訂正し、掲載いたします。

諸学者向けのコンテンツとなっております。
あくまで医心方の研究ですので、この発表と、実際の当院における、鍼灸治療とは異なりますので、その点ご理解ください。

 

医心方に見る妊産婦の鍼灸治療について
今回医心方に見る妊産婦に対する鍼灸治療について、取り上げようと考えましたきっかけは、わたくし事ですが、長男を授かったことです。

昨年11月20日に誕生し、名前を勇大といいます。

妊娠中の嫁の変化を具に観察し、関わる記述が古典にないものかと調べておりまして、面白い資料を見つけたのです。

医心方22巻には胎教や妊婦と胎児の養生法、習慣性流産の予防法や、つわり・むくみ・頻尿・熱病・腰痛などの対処方法などが記載されています。

私が今回、この22巻に注目をした理由は、妊娠月別の鍼灸治療の禁忌について、並びが肝真脾肺腎の順になっている点です。

それでは22巻第一章を、読みながら、考察をしてまいります。

具体的に禁忌となっている経穴名が列挙されていますが、今回はその部分については割愛いたします。

妊婦脈図月禁法
第一
1.産経云
(1)黄帝問曰人生如何以成岐伯對曰人之始生於冥乃始為形容無有ユウ乃為始収任身 一月曰胚(芳杯反)又曰胞(布交反)
二月曰胎三月曰血脈四月曰具骨五月曰動六月曰形成七月曰毛髪生八月曰瞳子明九月曰穀入胃十月曰兒出生也。
今案大素経云一月膏二月脈三月胞四月胎五月筋六月骨七月成八月動九月躁十月生
(2)夫婦人任身十二経脈主胎養胎当月不可針灸其脈也不禁皆為傷胎腹賊母也不可慎宜依月図而避之

2.
(1)懐身一月名曰始形飲食必精熟酸美無御大夫無食辛腥是謂始戴貞也
病源論云宜食大麦
(2)一月足厥陰脈養不可針灸其経也厥陰者是肝主筋亦不宜為力事寝必安静無令恐畏

3.
(1)懐身二月名曰始膏無食辛ソウ居必静処男子勿労百節骨間皆病是謂始蔵也
病源論云勿食辛腥之物二月之時兒精成也
(2)二月足少陽脈養不可針灸其経也少陽者内属於胆当護慎勿驚之

4.
(1)懐身三月名曰始胎当此之時未有定儀見物而化是故應見王公后妃公主好人不欲見ロウ者シュ儒醜悪痩人エンコウ無食苗キョウ兎肉
(2)思欲食菓瓜激味酸ショ瓜無食辛而悪臭是謂外像而内及故也
(3)三月手心主脈養不可針灸其経也心主者内属於心無悲哀無思慮驚動之

5.
(1)懐身四月始受水精以盛血脈其食稲コウ其羮魚雁是謂盛血気以通耳目而行経絡也
(2)四月手少陽脈養不可針灸其経也手少陽内属上焦静安形体和順心志節飲食之

6.
(1)懐身五月始受火精以盛血気オソク起沐浴浣衣身居堂必厚其裳朝吸天光以避寒オウ其食稲麦其羮牛羊和シュユ調以五味是謂養気以定五臓者也
(2)五月足大陰脈養不可針灸其経也大陰者内属於脾無大飢無甚飽無食乾燥無自灸熱大労倦之

7.
(1)懐身六月始受金精以成筋骨労身無処出遊於野数観走犬走馬宜食シ鳥猛獣之内是謂変湊理リョ細筋以養其爪以堅背リョ
(2)六月足陽明脈養不可針灸其経也陽明内属於脾調和五味食甘美和無大飽

8.
(1)懐身七月始受本精以成骨髄労ミ揺シ無使身安動作屈申自比於サル居必燥之飲食避寒必食稲コウ肌宍以密ソウ理是謂養骨而堅歯也
(2)七月手大陰脈養不可針灸其経也大陰者内属於肺無大言ム号哭無薄衣ム洗浴無寒飲之

9.
(1)懐身八月始受土精以成膚革和心静息無使気控是謂密湊理而光澤顔色也
(2)八月手陽明脈養不可針灸其経也陽明者内属於大腸無食燥物無忍大起

10.
(1)懐身九月始受石精以成皮毛六府百節莫不畢備飲ライ食甘緩帯自持而待之是謂養毛髪多才力也
(2)九月足少陰脈養不可針灸其経也少陰内属於胃無処湿冷無着炙衣

11.
(1)懐身十月倶已成子也時順天生吸地之気得天之霊而臨生時乃能テイ声遂天気是始生也
(2)十月足大陽脈養不可針灸其経也大陽内属於膀胱無処湿地無食大熱物

ということで、医心方では妊娠した婦人に鍼灸をする場合、12経脈は胎児を養う役割をしているので、各々、配当される月に、その経絡に鍼灸を施すことは危険なので、止めるべきだと言っています。
もしも施してしまうと、胎児だけでなく、母体に悪影響が及ぶと言うのです。

元本には十月の各々の、禁忌経絡と胎児の図が描かれておりまして、具体的にその月の経絡と穴が列挙されています。

またそれぞれ経絡の墓穴、輸穴も共に禁忌とされています。

さてここで、医心方がどのような医学書を引用して、編纂されたのかを、簡単に説明いたします。

黄帝内経は前漢紀元前206年から8年に成立しています。

春秋戦国時代の管子、前漢の淮南子、唐の文子などが相互に影響し合って、それぞれの時代の医書に反映されたと言うことは、まず大前提になると考えます。

馬王堆で出土した『胎産書』には、胎児の発育記述や妊婦の養生法などの論説が、妊娠の各月ごとに記されていると言うことです。
この書の記述の一部は、諸学者の意見を総合すると、流産した胎児を観察していたのではないかとされています。

『淮南子』もほぼ同じ時代に登場しておりますが、胎児発育に関する記述は、『胎産書』とは相当に違っており、実際の観察に基づく記述ではないのでは、と言う意見も多いようです。

『胎産書』の胎児の発育記述は世界で最も古い物とされています。

『胎産書』は中国湖南省の省都・になる長沙の東郊にある馬王堆の墳丘の横で発掘されました。
1971年のことですから、それほど昔ではありません。

紀元前168年から数年以内に死亡したとされる、婦人の遺体と共に出土しておりまして、少なくとも、『胎産書』の成立はそれ以前であろうとされています。

胎児の成長や養胎法、修身法・禁忌など、以後の古典の妊娠と胎児の記述の源となったと考えられています。 200年ころに書かれた王叔和の脈経に、妊娠時に養われる経絡の記載があるそうです。

産経は、すでに散逸しておりますが、400年前後に徳貞常により書かれたとされていまして、妊娠図があったとされています。

また、度々引用されている、『諸病原候論』は巣元方の書で、600年ころに書かれたものとされています。

医心方の22巻の、妊娠月別鍼灸禁忌についての、絵図と記述はこれらをルーツとしていると、考えられます。

ところで、この妊娠月別の記述ですが、五行論を用いて書かれています。

『胎産書』でも妊娠月と、胎児の発育状況が、五行配当に従い書かれていますが、類似点が多く、『諸病源候論』でも同一記述が多く、『胎産書』の影響を受けていることは疑いないと思われます。

また、共通点として三ヶ月までは、胎児の発育記述のみを記載し、四ヶ月から五行配当の具体的記述が表れてくることも、興味深い点です。

比較しやすいように並べてみました。

1.「胎産書・諸病源候論・医心方」 一ヶ月 流形・始形・始形 二ヶ月 始膏・始膏・始膏 三ヶ月 始脂・始胎・始胎 四ヶ月 而水受之、乃始成血・始受水精、以成血脈・始受水精、以成血脈 五ヶ月 而火受之、乃始成気・始受火精、以成其気・始受火精、以其血気 六ヶ月 而金受之、乃始成筋・始受金精、以成其筋・始受金精、以成其筋骨 七ヶ月 而木受之、乃始成骨・始受木精、以成其骨・始受木精、以成骨髄 八ヶ月 而土受之、乃始成膚革・始受土精、以成膚革・始受土精、以成膚革 九ヶ月 而石授之、乃始成毫毛・始受石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備・始受石精、以成皮毛。六腑百節莫不畢備

表1でご確認願いたいのですが、三ヶ月目までは胎児の発育状況を表しているだけですが、四月目から一月ごとにある水火金木土石の精は、九ヶ月目の石精を除けば五行の相尅関係になっています。

さて、この石と言うのが何を意味しているのか、いろいろ調べて見たのですが、不明です。

私の想像になりますが、印象としては、水のカテゴリーに入るのではないかとも思えます。

また四ヶ月目から始めると、丁度、出産月の前までに、石の記述がされていますが、五行を一周できると言う 関係になっていることも、一つの考察の材料となるのではないかと、考えられます。

そのように考えると、水から始まった五行の循行が一蹴すると、水ではなく石と標記されている意味は、天の五行の法則性と地上で生きていく実態を持った生物の始まりというように考えることもできるのではないかと、思うのです。

三ヶ月までは、母体が胚を受け入れて定着できるかどうかという試練の時期になります。

四ヶ月から、五行の法則性によるもの、つまり母体に備わったプログラムによって、胎児の成長が飛躍的に進歩します。

九ヶ月目で石と表現されていることは、地上に生まれ出て、母体の保護を受けずとも呼吸し新しい命として生きていける準備が整うことを、意味しているのではないかとも考えられます。

次に、月別に経絡が、胎児を養うと言う記述と、月別の養う経絡に鍼灸を行うと、悪い結果に繋がると言う記述について、考察いたします。

『胎産書』には、妊娠月別の経脈の記載がありません。
つまり、それ以降の新しい節が、付け加えて医心方に記述されていると考えるのが順当です。

『諸病源候論』・『産経』共に、妊娠中養うべき各月の、経脈があげられております。

該当する経脈には鍼灸共に行ってはならず、禁忌を破れば胎児を傷つけるおそれがあると、概ね一致した記述があるそうです。

また、それぞれ対応した臓腑の記述があることも共通点です。

実は、経脈と妊娠月との関係は、『脈経』にも記述されています。
『脈経』は、王叔和の書でおよそ1700年前に作られたとされています。

『諸病源候論』『産経』以前の書になります。

レジュメに、白文を記載いたしました。

眼を通していただきたいと思います。

2. 婦人懐胎
一月、之時足厥陰脈養。
二月、足小陽脈養。
三月、手心手脈養。
四月、手小陽脈養。
五月、足太陰脈養。
六月、足陽明脈養。
七月、手太陰脈養。
八月、手陽明脈養。
九月、足少陰脈養。
十月、足太陽脈養。
諸陰陽、各養三十日、活児、手太陽少陰不養者、下主月水上、為乳活児養母。懐妊者、不可灸刺、其経必堕胎。

このように、医心方の記述に類似している点があります。

しかしながら、『脉經』には臓腑の記述、胎児の成長や養胎等の記述が、見られないと言うことで、 『脈経』が『胎産書』とは全く別の系統から発展してきたとする諸学者もおります。

つまり、医心方では、五臓学説と、経絡学説を加えて、 胎産書の、五行的思想と、胎児の成長の順序を対応させたと考えられます。

さて、十ヶ月に、各々経絡を対応させ、その月の、経絡に鍼灸をしてはならないとする節について、私は最も興味をそそられました。

医心方で紹介されている、胎児の発育状況と、それぞれの月の経絡の属性を比較検討してみましたが、必ずしもそれぞれの臓腑の主たる、働きや生体のパーツとは、一致しませんでした。

『産経』と、『大素経』の対比をしていただければと思います。

3.
『産経』→一.胚、二.胎、三.血脈、四.骨、五.動、六.形成、七.毛髪、八.瞳子明、九.穀入胃、十.兒出生

『大素経』「黄帝内経大素経30巻のこと」→ 一.膏、二.脈、三.胞、四.胎、五.筋、六.骨、七.成、八.動、九.躁、十.生

産経の胎児の発育と配当される経絡をまとめますと、
妊娠一ヶ月は胚または胞といい・足の厥陰脈を養う
二ヶ月は胎・足の少陽脈を養う。
三ヶ月は血脈・手の心主の脈を養う。
四ヶ月は具骨という骨ができ・手の少陽脈を養う。
五ヵ月は動といい胎動がはじまり・足の大陰脈を養う。
六ヵ月は、形成といい形ができ・足の陽明脈を養う。
七ヵ月は毛髪を生じ・手の大陰脈を養う。
八ヵ月は瞳子が明るくなり・手の陽明脈を養う。
九ヵ月は穀物が胃に入り・足の少陰脈を養う。
十ヶ月は児の出生する月になり・足の太陽脈を養う。
ということになります。

しかし、『大素経』では、月別の胎児の発育順序が異なっており、脉經には、胎児の発育と五臓学説との対応記述がありませんので、『胎産書』の四ヶ月目から始まる五行的思想とも合致しない論理であるということで、とりあえず列挙したのかもしれません。

もしくは、妊娠十ヶ月を五等分し、五臓五腑に対応するとする考え方は、脉經に表されている、妊娠月別の経絡の記載が、大素経由来の五臓学説に対応させやすかったために、列挙したものと推測できます。

また、『胎産書』・『産経』・『諸病源候論』の胎児の発育記述はほぼ共通しており、現代医学の胎児の発育状況と比較すると、『大素経』より緩やかに共通しています。

それでは、現代の妊娠の経過と比較してみましょう。

妊娠初期は受精卵がゆっくりと細胞分裂を繰り返しながら卵管を下り、およそ48時間かけて子宮にたどり着きます。

次に、子宮内膜の一箇所に取り付いて、徐々に潜り込んでいって根を下ろし、排卵から7~11日後に着床状態が完成します。

着床した段階で、妊娠と認められます。 続いて着床した受精卵から、胎盤が形成され、妊娠中期に入る頃までに完成します。

15週まで母体の外観はあまり変わりありません。

ホルモン分泌の変化により、つわり、嗜好の変化、眠気、頻尿、便秘 精神的に不安定になり、周りの者に当り散らす・落ち込むなどの変調をきたすことが挙げられます。

妊娠中期、16~27週になると胎動が感じられるようになり、多くの場合はつわりもほぼおさまり、安定期に入ります。

22週以降はICU集中管理により、生存の可能性がでてくるそうです。

この時期の胎児の発育は急速で、子宮が大きくなり、妊婦の腹部は膨らんでいきます。

乳房は乳腺の発達によって膨らんで、乳輪のに色素沈着が見られるようになります。

妊娠後期、28週からで、胎児が大きくなるにつれて、さらに子宮が大きくなるため、母体に負担が出やすくなります。

貧血や妊娠高血圧症候群(妊娠中毒症)となって、蛋白尿やむくみなどがおこりやすくなります。

次に胎児の発育について比較します。
産経→1胚、 大素経→一膏 着床直後は、胎芽胚葉を形成しています。
外層の外胚葉、中層の中胚葉ならびに内層の内胚葉に分化します。
妊娠3週末期、胎芽は0.8~1.6mmに達します。 目・耳・四肢などの起源がみられます。
また、魚と同様の鰓弓(さいきゅう)と尾をもっています。
すべての器官の元となる、細胞が揃っています。

産経→2胎 大素経→二脈 妊娠4~7週、胎芽は長さ2.5~3cmくらいになっています。
頭部が身体の大部分を占めており、尾は短くなり四肢の隆起があらわれます。
まず脳が急速に発達するそうです。

産経→3血脈 大素経→三胞 妊娠8~11週、胎児は身長7~9cmほどになり、体重およそ20gになります。
頭部・体幹・四肢が明らかに区別でき、爪も形成され、外陰部も分化しています。
骨には化骨があらわれはじめ、心拍動を超音波ドップラー法でみとめることができます。

産経→4骨 大素経→四胎 妊娠12~15週、身長14~17cm、体重およそ100gになります。
男女の区別ができるようになり、皮膚は赤く、すきとおって産毛(毳毛ぜいもう)が生えはじめます。
腸には胎便ができ、心拍音や胎動が、確認できます。

産経→5動 大素経→五筋 妊娠16~19週、身長およそ25cm、体重250gになります。
母体自信が胎動を感じることができます。
皮膚の赤みは少なくなり、毛髪が表れ始めます。
まだ頭が大きく、皮下脂肪が少ない状態で、痩せています。

産経→6形成 大素経→六骨 妊娠20~23週、身長およそ30cm、体重650gになります。
身体のつり合いはとれ、皮膚には胎脂がつきはじめます。
この時期に早産した胎児は泣くことができますが、肺の発達が充分でないため、呼吸を助ける必要があります。
現代医療でも、生存率が30パーセントと低く、後遺症も大きいとされています。

産経→、7毛髪 大素経→七成 妊娠24~27週、身長およそ35cm、体重1,000~1,100gになります。
目は開き、皮膚は赤く、しわがあります。
早産では、まだ泣き声は弱く、呻吟するだけで、肺と腸管の発育が不十分ですので、まだICUで管理しなければ生存できません。

産経→8瞳子明 大素経→八動、 妊娠28~31週、身長およそ40cm、体重1,600~1,800gになります。
皮膚は淡紅赤色で痩せていてしわが多く、老人のような顔をしています。
骨は硬くなり、泣き声も強くなり呼吸が何とか可能ですので、早産でも十分なケアを行えば生存できます。

産経→9穀入胃 大素経→九躁 妊娠32~35週、身長およそ45cm体重2,000~2,500gになります。
胎脂が少なくなり、皮下脂肪が増加して、しわやひだが少なくなり、身体は丸みをおびてきます。
ほとんどの器官が発達しています。

産経→10兒出生 大素経→十生 妊娠36~39週、身長およそ50cm、体重3,000~3,300gになります。
皮膚は淡紅色で、しわが少なく、皮下脂肪に富み、全身の生毛はほとんど消失しています。

現代医学による胎児観察ではこのようになっておりまして、 『産経』との認識には、ある程度の共通点があると思われますが、『大素経』と比較すると、共通点が多いとは言えません。 現代医学の胎児の発育と関係なく、五行に当てはめてみても、合致する所が少なく、十ヶ月を肝真肺腎と、その表裏の五腑に当てはめ、各々の経絡が、胎児を養うとする、根拠が窺えません。

これまで説明してまいりました、古書の記述と、ルーツを考えると、胎児の発育の過程と、四ヶ月目からの五行との関わり、五臓学説と、経絡学説を、無理やりにくっつけてしまったために、複雑怪奇なものになってしまったのではないかと、私は考えます。

そして、私の結論といたしましては、各々の配当する、経絡が胎児を養うと言う節は 、妊娠月に配当されている経絡に、鍼灸をすると、母体の生理機能に、偏重を来たし、流産に繋がる化膿性があると言うことなのではなかろうかと、考えています。 妊娠四ヶ月目までは、厥陰と少陽の配当になっています。

陽臓の支配する期間であり、医心方で記述されているように、動作や感情、能動的な反応と関わりが強いと考えられます。

また、一般的につわりの時気に当たり、嘔吐やイライラ、 憂鬱を初め、感情不安定など、肝臓心包の症状と一致します。

さらに着床後は不安定であり、医心方でも触れられていますが、筋肉を動かし力を入れること、はしゃいだり驚いたりすることに、注意を促しています。

医心方の第二章では、産経と千金方を引用し、三ヶ月までの胎児はまだ形が定まっていないことを指摘しており、妊婦の動作や、心のあり方についての記述が多く見られます。

つまり、この陽臓の働きに注意しなければならない時期に、 鍼灸を行う場合、その働きを適切な常態にするための、経絡を選ばなければならないと言うことです。

そのように考えれば、手足の厥陰と表裏の少陽に、鍼灸を禁じていることもうなづけます。

五ヶ月から八ヶ月は太陰と表裏の陽明が禁じられています。 この時気は、胎児が急速に大きくなり、母体も栄養を摂取する必要に迫られると考えます。 太陰の化する能力を、どのように幇助することができるのかが、問題とされます。

九ヶ月目十ヶ月目は、少陰と表裏の太陽です。胎児がずいぶん大きくなり、母体への負担が大きくなっています。

むくみ妊娠時高血圧など、腎の津液の管理との関わりが大きくなる時気です。

母体の生理機能を基準に考察すると、妊娠月別の、鍼灸の禁忌に、説得力が出てくるように思います。
加えて、医心方22巻第四章のつわりについて、第七章の胎動不安について、 第八章の習慣性流産について、 第十八章、第二十章、第二十一章の、心痛、腹痛、腰痛について続けて記載いたします。

治任婦悪阻方
第四
1.病源論云
(1)悪阻病者心中悶頭重眼眩四支沈重解惰不欲執作悪聞食気欲クワン鹹酸菓実多臥少起世云悪食
(2)又云悪字是也   及至三四月日以上大劇者吐逆不能自勝挙也此由婦人本虚ルイ血気不足腎気又弱兼当風冷大過心下有淡水挟之而有娠也
経既閉水漬於蔵気不宣故心煩憤気逆則嘔吐血脈不通経絡否澁則四支沈重挟風則頭痛眩故欲有胎而病悪阻所謂 治任婦胎動不安方

第七
1.病源論云
(1)胎動不安者多因労役或触冒冷熱或飲食不適或居処失宜軽者轉動不安重者便致傷胎 治任婦数落胎方

第八
1.病源論云
(1)陽施陰化故得有胎営衛和調則経養周之故胎得安而能成長若血気虚損者子蔵為風冷所傷不能養胎所以数堕胎任娠而恒腰痛者喜堕胎也 治任婦心痛方

第十八
1.病源論云
心痛者多是因風邪淡飲乗心之経故也 治任婦腹痛方

第廿
1.病源論云
任身腹痛者因風耶入於府蔵所成 治任婦腰痛方

第廿一
1.病源論云
腎主腰脚因労損傷動其経虚則風冷乗之故腰痛

これらの記述から、二つのキーワードが浮かび上がってくると考えました。

それは、風と冷です。

医心方では、主として外風を指しており、冷についても外寒に近い認識のように読み取れます。

しかし、総合的に読み取ると、飲食や労働、外部環境の過不足によって、風冷におかされると言う認識があったと、理解できます。

嘔吐、気逆や痛みは風の症状であり、血気が不足したために入り込まれるという認識があったと整理できます。

冷については、何らかの原因で、母体の気血の巡りが順調でない常態であり、 栄養分や精気が充足できないことを指していると思われます。

さて、風と冷をキーワードに妊娠月を捉えると、衛と栄営と言い換えても良いのではないかと考えています。

ここで、先ほど話しました、妊娠月を、厥陰、太陰、少陰の順に捉える考え方を思い出していただきたいと思います。

風は、敵にたいしての防衛反応が起こったことを表していますが、そもそもつわりという現象は、外界から入ってきた物と和合した受精卵を、受け入れることから始まります。

受精卵はもちろん敵ではありませんが、受け入れるためには適切な反応が必要です。

妊娠初期の一連の厥陰と関連付けられる、ある種の母体の反応は、衛と解釈できると考えます。

また、妊娠中期は、母体が潤沢な栄養を摂取できることが必要であり、栄が重要なポイントになると考えます。

妊娠後期、母体の体力を幇助するためには、特に循環機能が重要なポイントであり、営気がポイントになると考えます。

このように風と冷をキーワードに、衛気榮氣営気を、母体の整理活動と、妊娠月に対応させると、 妊娠月別の鍼灸治療の、各経絡の禁忌が、どのような意味を成しているのか、理解できると考察いたしました。

拙い文章でしたが、これにて医心方と妊産婦の鍼灸治療についての、考察を終了いたします。

 

医心方の歴史
医心方と丹波康頼についてウィキベディアや、京都府福知山市のホームページで調べると 「医心方(いしんぼう)とは平安時代の宮中医官である鍼博士丹波康頼撰による日本現存最古の医学書である。とされています。

この書は、全30巻から構成されており、その中身を大まかに分けますと、鍼灸について、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技術・医学思想・房中術などから構成されております。

槇佐知子さんの、『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻から紹介いたします。

ここで紹介する巻きの、名称は槇佐知子さんが便宜上名づけた物ですが、判りやすいのでそのまま読みます。
『巻一』※未刊
『巻二A 鍼灸篇Ⅰ 孔穴主治』・『巻二B 鍼灸篇Ⅱ 施療』
『巻三 風病篇』
『巻四 美容篇』
『巻五 耳鼻咽喉眼歯篇』
『巻六 五臓六腑』
『巻七 性病・諸痔・寄生虫篇』
『巻八 脚病篇』
『巻九 咳嗽篇』
『巻十 積聚・疝か・水腫篇』
『巻十一 痢病篇』
『巻十二 泌尿器』
『巻十三 虚労篇』
『巻十四 蘇生・傷寒篇』
『巻十五 癰疽篇 悪性腫瘍・壊疽』
『巻十六 腫瘤篇』
『巻十七 皮膚病篇』
『巻十八 外傷篇』
『巻十九 服石篇1』
『巻二十 服石篇2』
『巻二十一 婦人諸病篇』
『巻二十二 胎教篇』
『巻二十三 産科治療・儀礼篇』
『巻二十四 占相篇』
『巻二十五A 小児篇Ⅰ』・『巻二十五B 小児篇Ⅱ』
『巻二十六 仙道篇』
『巻二十七 養生篇』
『巻二十八 房内篇』
『巻二十九 中毒篇』
『巻三十 食養篇』

このように、大まかには病証と治療方を、判りやすく、まとめた書となっています。

ここで注目したいことは 巻三十までの中で、鍼灸についての記述がない巻きは 『巻四 美容篇』 『巻二十六 仙道篇』 『巻二十七 養生篇』 『巻三十 食養篇』 の4っつの巻きだけであると言うことです。

第二巻にかなりの文量で、鍼灸治療についての、基礎的な部分に 言及し、谿穴660穴の解説を、人体の各パーツごとにまとめてあります。

具体的にその谿穴はどのような効果を果たす物であるか、実際にどのように針灸を行うかを、順を追って記載してあります。

これらのことから、鍼灸医学は、当時の治療法の柱角をなしていたことが、充分窺えます。

ちなみにウィキペディアによりますと、この槇佐知子さんは、1933年、静岡県生まれと言うことです。

本名・杉山多加子さんと言いまして、 1974年に『医心方』の本邦初訳に取り組始めたそうです。
瀧井孝作に師事し、その推薦で1976-78年『心』に小説を発表。
その後児童読物執筆ののち、1978年、『大同類聚方』の本邦初訳に取り組み、独学で現代語訳を続け、1985年『全訳精解大同類聚方』を刊行し、1986年に菊池寛賞、1987年エイボン功績賞を受賞。
1991年から1997年まで筑波技術短期大学講師。
1993年から『医心方全訳精解』全30巻を逐次刊行中。
日本医史学会会員。

とのことです。

今回の発表では、この 槇佐知子さんの医心方全訳精解の点訳版を、参考にいたしました。

この医心方ですが、本文はすべて漢文で書かれており、唐代に存在した膨大な医学書を引用していると言うことで、現在では地上から失われた多くの佚書を、この医心方から復元することができることから、文献学上非常に重要な書物とされています。

漢方医学のみならず、平安・鎌倉時代の送りカナ・ヲコト点がついているため、国語学史・書道史上からも重要視されていると言うことです。

この丹波康頼ですが、平安時代の医家と言うことで、その後に代々医学を伝承していくことになります。
官位・官職は従五位の上ということです。
医博士、丹波介、左衛門佐と言う官職だそうです。
延喜12年(912年) – 長徳元年4月19日(995年5月21日))丹波国天田郡(現在の京都府、福知山市)若しくは桑田郡矢田(現在の亀岡市)の出身と言うことです。
康頼以前の系譜は明らかでないということで、どこから来たのか、はっきりしていません。
出自には2つの説があるそうで1つは、中国からの渡来人の流れを汲む坂上氏の一族とするもので遠祖は後漢の霊帝であるという節。
各種系図ではこの説を採るものが多いそうです。
『姓氏家系大辞典』でも出自を坂上氏の一族である丹波史の子孫とすると記述されています。

もう1つの説では尾張氏の一族で丹波国造家の丹波直の子孫とし、 丹波氏に改める前は劉芳氏と言ったと言う説があるそうです。
この時代の医学のトップリーダーで、永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上したと言うことで、日本の鍼灸医学、漢方医学の成立の歴史から見て、偉大な功績を残した先輩と言うことになります。
亀岡市下矢田町には、康頼が住み、薬草を育てたとの言い伝えがあるそうで、医王谷などの地名が残されているそうです。
子孫は代々典薬頭を世襲し侍医に任じられる者を輩出しています。
室町時代に錦小路家が分家となっていまして、今回取り上げる医心方の22巻について、面白いエピソードがありますので、後にお話いたします。
子孫のうち著名な者としては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられます。
薬学者の丹波敬三、また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・義隆親子や作曲家の丹波明が末裔にあたるそうです。

医心方の歴史を辿ってみますと…丹波康頼により984年(永観2年)11月28日に朝廷に献上されたと、医心方第一巻の巻頭に書かれています。

天元「テンゲン」5年、82歳で着手したとされ、天元5年は982年となりますので、 二年間で作成されたと言うことになります。
84歳と言う年齢を考えると、超人的ですね。

この「医心方」は禁闕(きんけつ宮中)の秘本であつたそうです。

長年宮中に収められていましたが、正親町(おほぎまち)天皇(在位1560-1586)によって、典薬頭(てんやくのかみ)半井通仙院(なからゐつうせんゐん)瑞策に下賜されたとの事です。

それからは長年、半井家が保有していました。

丹波家においても秘蔵されていたとしていますが、幕末までに多くが失われていたようです。

蘭学が入ってきている中、当時漢方を日本の医学の主流として伝統を守ろうとしてきたのは夛紀氏の「考証派」であったそうです。

夛紀家は「医心方」の作者、丹波康頼の後裔と言うことで、18世紀始めに京都から江戸に移り、幕府に仕えて姓を夛紀に改めています。

多紀家は半井家と並ぶ江戸幕府の最高医官を代々勤めています。

夛紀元孝は将軍吉宗の信任を得て医学塾「躋寿館(せいじゅかん)」を開き(1765)漢方医の育成に当っています。

幕府は躋寿館を官設の「医学館」とし(1791)、館長を夛紀氏の世襲にしています。

前後しますが、幕府は、寛政(1789)の初に、医心方の仁和寺文庫本を謄写させようと、躋寿館に命じたのですが、脱簡(だつかん落丁)が、多く使い物にならなかったそうです。

そこで半井氏の本を手に入れようとして、直々に命じたそうです。

ところが当時の半井成美(せいび)は謙譲をしぶって、その子清雅(せいが)もまたまた、謙譲を逃れたために、清雅の子広明(ひろあき)にまで、伸び伸びに謙譲が送らされたとのことです。

半井成美がどのように断ったのか、定かではありませんが、天明八年(1788)の火事で、京都に於て焼失したと言う、言い訳が後にされているようです。

幕府はその回答に満足せずに、類似品でも良いから、とにかく出せと命じます。

半井広明「ひろあき」の代になってやっと、幕府に出すことになるのですが、 このような書面があるようです。

「外題は同じであるが、筆者区々(まちまち)になつてゐて、誤脱多く、甚だ疑はしき?巻(そかん粗本)である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供する」とのこと。

丹波の子孫の、多紀さんは、先祖の医書が、ナカライ家にあって、門外不出となっていることを、心由とせずに 幕府を動かして、みたものの、半井「なからい」家では、なかなか応じなかったと言う経緯があると言うことです。

安静元年「1854年」に幕府に命じられて、しぶしぶと期限付きで、貸与されています。

幕府は1年間、予算を計上して、模写をさせておりまして、これが安静復刻本と言うことになります。

幕府の力の入れようは尋常でなかったとのことです。
と言いますのは、この「医心方」は巣元方(そうげんぽう隋の医者)の「病源候論(びょうげんこうろん)」を経(けい縦糸)とし、隋唐の方書百余家を緯(ゐ横糸)として作られたもので、 その引用文献は、当時の中国大陸で散逸してしまった物が多く含まれていたためです。

躋寿館の人々は驚き喜んだとのことです。

幕府は館員の進言に従つて、直ちに校刻を命ました。

幕府によって総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられておりまして、 その総裁は多紀楽真院法印(ほふいん最高位)、多紀安良(あんりやう)法眼(ほふげん法印の下)だったそうで、やっと念願がかなったと言うところでしょうか。

躋寿館では「医心方」影写(えいしや透き写す)程式(ていしき規則)と云ふものが定められて、 写生は毎朝辰刻(八時)に登館して、一人一日三頁を模写することが、ノルマとされていまして、ノルマを終えると任意に退出できたようです。

六ページを模写できた場合、翌日休んでも良いとされ、3ページに満たない者がいると、休日変蒸で働かされたとの鬼録が残っています。

半井「なからい」家の半井本は、1982年文化庁によって買い上げがあり、1984年国宝となっているとのことです。

ちなみに大同類聚方(だいどうるいじゅほう)についても槇佐知子さんが全訳精解本を出版している訳ですが これは平安時代初期の大同3年(808年)に編纂された日本における唯一の古医方の医学書であるとともに、最古の国定薬局方でもあるということで、全100巻あります。

『日本後紀』によれば、大同3年5月3日に完成品が天皇に上奏されたとされています。

同年制定された「大同医式」によって、薬品の処方はこれに基づくように定められたとのことです。

江戸時代、同書は和方家の聖典として考えられるようになります。

ところが後になって当時流布していた諸本に対して後世の偽書ではないかとする意見が現れるようになりまして、大論争になったそうです。

今日では現存する諸本は全て偽書(写本)で真本は散逸したものとするのが通説とされているそうです。
と言うことで、現存する、日本最古の医学書は、医心方なのだそうです。

医心方、全30巻の中でも巻22は、特別な経緯があります。

現在の京都府の加茂の医家、岡本由顕が手に入れた、「医心方」巻二十二と言う言うのがそれです。

22巻の流出について二つの節があります。

正親町(おほぎまち)天皇の時になりますので1560から1584の間に、 半井瑞策は医心方を、賜っています。

朝日日本歴史人物事典の解説によりますと 半井瑞策は大永2年 (1522)生まれ、没年が慶長1年(1596)と言うことで 安土桃山時代の医者で医術に詳しく,宮内大輔に任ぜられています。

皇后の病気を治したことで、正親町天皇から『医心方』30巻(国宝)と通仙院の院号を賜った人です。

それに加えて御殿一式を拝領していまして、 現在,重要文化財に指定されております(通遷院)と言う現在で言う病院一棟を大徳寺真珠庵に作ることを許されています。

深黒の素絹を着ることを許されていたとのことで、医官の最上席に着座を許されたという人です。

京都で没し、大徳寺真珠庵に葬られています。

<参考文献>
石野瑛「大医和気・半井家系の研究」(『中外  さて岡本保晃(ホウコウ)と言う人がいたそうです。
この方は従(じゆ)五位上(ジョウ)の位になる人だそうですが、 保晃は半井瑞策に「医心方」一巻を借りて写したのだそうですが、なぜか原本を半井氏に返すに及ばずして歿したと言う節があります。
また保晃は岡本由顕の曾祖父なのですが、由顕の節によると 「医心方」は徳川家光が半井瑞策に授けた書で、保晃は瑞策に師事していました。
瑞策の妻が産後に病気になり、死にそうになっていたところ、保晃が薬を投じて救つたのだそうです。
救ったのは愛娘だったとする節もあります。
まあとにかく瑞策がこれに感謝して、「医心方」一巻を贈つたと言う節です。
しかしながら、「医心方」を瑞策に授けたのは、家光ではないだろうと言うのが現在の通説です、 瑞策は京都にいた人で、江戸に下つたことはないと思われること、 瑞策が恩返しのために物を送ろうとしたとしても、まさか帝室から賜つた「医心方」三十巻の中から、一巻を割いて贈りはしなかつただろうというのです。
この部分については、両節共、定かではないのですが、その後岡本氏の家が衰へて、畑成文(はたせいぶん)に医心方22巻を託して、売ってお金に換えようとしたそうです。
この成文と言うひとは錦小路(にしきこうぢ)中務権少輔(ごんせういう)に購入を勧めました。
錦小路「にしきのこうじ」家は、丹波康頼の子孫にあたります。
半井家と、丹波家、医学を代々継承する名門の医心方の争奪合戦の様相を呈しているようですが、 この22巻は、またも流出し、転々とした後、國民新聞の創設者徳富蘇峰「とくとみそぼう」の手に渡り、 1933年、重要文化財に指定されています。