古代中国の神は、キリスト教や神道など宗教的な意味ではありません。 霊妙な物とはとらえていますが、そこには、物理的な存在が定義されています。  霊枢・本神篇に「生の来たるを、これを精といい、両精相打つ。これを神という。」とあります。 これによると神は、陰陽両精が会合して生体を生成した後に生じた生命活動であると言うことになります。 従って神は、先天の精によって生成されることになり、つまり胚胎形成の際、生命の神が生じると言うように考えられています。  神は先天において生成されるとしていますが、後天では腎陽によると考えられています。霊枢・平人絶穀篇では、「故に神は水穀の精気なり。」と説いています。 「水穀の精気充足すれば五臓調和し、神の機能は旺盛となる。もし精気が傷れると、栄は渋り・衛は働かず・神は去って病は癒えない。神が充実し・旺盛であると、内臓と形体は活発となり、神が散逸すると全てが作用しなくなる。神は、内臓の面で活動しており、素問・宣明五気論によれば「臓は、人の神気を貯蔵する処なり。肝は魂を蔵し・心は神を蔵し・脾は意と智を蔵し・肺は魄を蔵し、腎は精と志を蔵するなり。」とあります。 上記は人間の生命活動を説明するときに用いられている「神」ですが、古代中国哲学での「神」は、営みを表現する名詞と言い換えてよいでしょう。 淮南子、精神訓には 「 むかし天も地もなかった時、ただ無形としかたとえようがなく、暗く深く茫漠混沌とした気が、どこからともなく湧き出でて、はてしなく連なっていた。  その中から二神が渾然一体となって現れ、天地を創り始めた。  その営みは奥深くていつ終わるとも知れず、広漠としていつ果てるとも知れなかった。  ここにおいて分かれて陰陽の二気をを生じ、離れて八方の極が立ち、剛柔が互いに成り、万物が形づくられた。」とあります。 「 天地の道は、至って広く大きなものであるが、しかしそれでもなおその光輝を節制し、その神明を愛惜する。  ましてや人が、耳目を奔命に疲れさせてとどまることを知らず、精神を馳せめぐらせてやむことがない、ということでよかろうか。  さらに血気は人の華、五臓は人の精である。  血気が五臓に集まって外に散らないと、胸腹は充実して嗜欲は除かれる。胸腹が充実し嗜欲が除かれると耳目は澄んで聴視は冴える。  耳目が澄んで聴視が冴えるのを明と言う。  五臓が心に従って乖く(そむく)ことがなければ、邪志は去って行為は正される。  邪志が去って行為が正されると、精神は活発となり気は散らない。  精神が活発となり気が散らなければ、心はおさまる。  心がおさまれば、均衡が保たれる。  均衡が保たれれば、万事に通暁できる。  万事に通暁すれば、神(霊妙自在な状態)となる。  神であればこそ、視て見えぬものはなく聴いて聞こえぬものはなく、為して成らぬものはない。  かくなる上は、憂患が入り込むすきも邪気が襲いよるすきもありはしない。  元来、物事には、四海のはてまで求めて行っても見つからぬことがあり、一方では、せっかく一身の内に保持していながら気づかぬことがある。  故に、求めるところの多い者はか却って得るところも少なく、見ることの広い者は、却って知るところも少ないのである。」 ともあります。 このように中国哲学で使用される「神」は、営みであり、その営みの源泉は霊妙であって、バランスが崩れると崩壊してしまうものであり、宇宙の法則に乗っ取ったもの「物理法則」の上に成り立っていると解釈できるのです。 このような論理展開が2000年前に確立されていたことは、驚嘆ですね。 「