広義には気はすべての事象を表現しているので、古代哲学では必ずその意味を限定しなければ何にもなりません。 ですので、よく漢方医学の「気」の存在が確認できないと言う点で、現代医学に劣るものだと主張する科学者がおりますが、それはとんでもない大間違いです。 気と言う概念は、物事を分類する時に使用する「タグ」みたいなものであって、物質だけを指し示すものではないからです。 言い換えれば、要素とも言えるでしょう。 ここでは、整体の生理活動を四つの要素に分けた時の気の役割を分類するときに、気と言う名刺を使用していると言うことなのです。  霊枢決気篇には、「上焦の胸中に一種の開放発動する力があり、それは五穀の精微を、栄養として広く運び、全身の活力を満たす。最も外装にある皮膚と毛髪もその栄養を受けて、温暖潤沢となるのは、あたかも霧露の草木を灌漑するようであり、これを気と呼ぶ。」。 霊枢栄衞生会篇ででは「気の生成は食物の精微から出るもので、食物の精微は消化吸収されて後肺に伝わり、肺と外界の気体の交換の後、五臓六腑は皆気の灌漑を受ける。その中で、 作用の柔和な部分は栄気となり・ 作用の剛直な部分は衛気となり、 栄気は脈の中を流れ、衛気は脈外を循環する。」  霊枢刺節眞邪篇には「真気の来源は、外界の空気と水穀の精微が合わさり成立したものであり、全身を満たし、生態の生命活動を維持している。」 →と言うことで、この四つの分類で指示されている気は、呼吸と飲食などを通じて取り入れられたものが、整体の活動する動力となったものと言う意味合いにまとめられます。 動力、エネルギーと言う処に「気」と言う名刺は集約されるわけですが、定義を理解せずに、「気」だけを取り上げて物事を考察しようとすると、間違いやすいので注意が必要ですね。