気と言う概念は、現代人にはやや荒唐無稽に感じられるように思います。 ですが、きちんと論理的にとらえると、それほど難しいこともありません。 古代中国哲学では、全ての事象は気で説明できます。 現象すべてが気なのですから、言い換えるとエネルギーや物理、などに変換できるでしょう。 気は、自然の天道と・天と地の間の人道との相関関係にある陰陽五行思想が基盤となって成立しています。 陰陽の気は、混沌の中から生じたと表現されています。 古代中国では無と言う概念が、物理的な事象として設定されています。 無は0ではなく、人が目で見て存在はほとんど感じられずに、殺伐として空虚であっても、何らかの物理的事象は、すべて排除されたものではありません。 それは無我無無になり、無無無になって極限の状態となっても、0ではないのです。 そんな極限の無の世界でも、どこかに混沌が生じ、陰陽の2気が生じ、物理的な融合や分裂を繰り返し、光と闇天と地が形成され、宇宙となると言うような思想が古代哲学の基礎なのです。 気の始原は元気と言います。 気の初めて起こることを<太初>といい、形の初めて起こることを<太始>、質が初めて形成されることを<太素>といいます。 この気・形・質は、始元としての太初・太始・太素の三気が、それぞれ一つの概念を現す姿に合わせて表現したものであり、次に太極・陰陽・五行と続いていきます。 全ての事象は陰陽や五行などの、物理的法則を無視しては存在できません。 現代科学の側からその思想を分析すると、陰陽五行などの論は、物理的な事象の比較論として理解できます。 つまり陰陽や五行は、物差しのような存在であり、その物差しは時に立体的な事象を評価するのに都合が良いし、二元論に集約するのに都合が良いと言うようなものとなります。 漢方医学にも当然気と言う概念が取り入れられていますが、ほとんどは気単体でオールマイティーに使用される名刺ではありません。 事象によって、気と血や、栄気、衛気、陽気、陰気、病気、精気など、何に着目した要素であるかを規定するための概念として表現されています。 気と言われると神秘的で、特別なものと考えられがちですが、何のことはない一般的な事象なのです。 ただし、その気と言うことを理解しようとするとき、古代哲学の陰陽五行論を軽んじることはまったくできませんし、宇宙の成り立ち、季節の成り立ち、万物の成り立ちなどの古代哲学的な世界観をないがしろにすると、漢方理論は空疎な概念となり下がってしまいます。 漢方医学の基本は、気象現象や風土と、人の生理がどのようであれば円滑であるかと言うような処から始まっています。 つまりAと言う現象と、Bと言う事象は何らかの関連性がある。 ではそれを分析するとき、どの物差しを使うべきかと言うことになるのですが、気の概念が必要になり、気は陰陽五行や六期、4時などの古代哲学的な考え方を知らずには対処できないのです。